★   ★  実行する行為が『時間移動』である以上、相対的にも絶対的にも『移動に時間がかかる』ということはありえない。省略される時間には時の経過などあるわけもない。ただし相対的にはぼくとりすかは一週間の時間を一瞬に『体験』——りすかの言葉を借りれば『無体験』——することになるのだから、その加速に肉体と脳がついていけるかどうかが、課題なのだった。強《し》いて言うなら、それはりすかと——正確にはりすかの『血液』との相性の問題だ。『同着』し『固定』し、それでも尚、失敗するケースもある。失敗した場合どうなるかは——まあ、いいにしておこう。幸い、ぼくの名前である供犠創貴、それに生年月日はりすかの『血液』とワンミス・マッチという結果で——このように、時間移動に同行することができるわけだ。肉体的にはともかく、こう、世界がぐにゃああぁあっと歪んでいく感じは、精神にとって露骨にきついものがあるのだが。意味がないと分かっていても、つい目を閉じてしまう。我ながら情けない。そして、そして—— 「う、うわぁ?」  素っ頓狂《すっとんきょう》な悲鳴が聞こえて——目を開ければ、そこは、白く四角く区切られた——病室内の、ようだった。どうやら『時間移動』——そして二次的な『空間移動』には、成功した模様だ。無論、進んだのはぼくとりすかにとっての相対的時間であって、絶対的には、今は、ぼくらは新木砂駅の二番ホームにいた一瞬後——文字通りの一瞬後に過ぎないのだが。見れば、ベッドの上に、一人の貧相な男が、上半身を起こして、びっくり仰天したように、ぼくとりすかを凝視《ぎょうし》していた。そりゃそうだ、彼からすれば『いきなり』、目の前の座標に人間が登場したようなもの、そのものなのだから。回診の時間でなかったのは幸いだった——医者や看護婦に見つかれば、誤魔化すのに労を要するからな。面会客も、いないようだ。とすると間違いなく——この貧相な、白髪《しらが》混じりの中年の男が、くだんの運転士——高峰幸太郎か。そういえば、顔を見て想い出した——あの事故の際の、スローモーションの映像の中、唖然とした運転士の表情—— 「な、なんだ?きみたちは。どこから入って来た?ど、どうやって——どうして、子供が——」動転を隠そうともしない高峰運転士——いや、辞表を出しているから『元』運転士、か。「い、いや、そんなことよりも——」 「落ち着いて下さい。大人でしょう、取り乱さずに」ぼくは高峰をなだめにかかる。こういうときの手はずも、一年前ならまだしも、今のぼくには手馴れたものだった。常識に凝り固まった大人ほど、分かり易い答を与えてやれば、それだけのことで誤魔化されやすい存在はいない。「どっしり構えていてくださいよ。ぼくらはですね、そう、あなたに——」 「あなたにひとつだけ、聞きたいことがあります」  ぼくの台詞を遮《さえぎ》るように、りすかが言った。いつもはぼくの『誤魔化し』が終わるまで喋ろうともしないりすかにしては、それは珍しいことだった。高峰の返事を待たず、りすかは次の言葉を続けた。 「あなたに魔法を教えたのは誰ですか?」 「………………」 「………………」  ——と。高峰の表情から——動揺や怯《おび》えが、ふっと、消去されたかのように、なくなっていく。「……ふふふ」と、俯《うつむ》いて、不気味な風に笑って、やがて、顔をあげ、ぼくとりすかを、見据《みす》えるようにした。 「……成程。あんたが——『赤き時の魔女』、か」 「…………」  りすかは高峰を向いたままだ。否定しないのは、もうそれは肯定のようなものだった。 「この俺を——裁きにきたと、そういうわけか?」 「……まあ——そんなところ、なの」  りすかは不敵に、そう応じた。そんな中、ぼくは急速に理解する。そうか——そうだ。仕掛けられていたのが魔法式だったから、『犯人』はすぐそばにいなければならないと思い込んでいたが——常時現場のそばにいなければならないと、思い込んでしまっていたが——根底、その、電車の運転士だったならば——『事実』が生じるそのとき正に、『その場』に現れることができるじゃないか。正に——測ったようなタイミングで、ぴったりと。一秒——微妙な数字ではあるが、電車の速度もそのときには落ちているだろうし——早口で呪文を唱えれば、通過するその寸前に、『真空』の召喚は、可能だ。 「理解できたみたいね、キズタカ」りすかはぼくに言う。「そう——ベストポジションはキズタカのいた位置でも二番ホームの正面でもないの。一番の真のスイートスポット、もっとも『よく』四人が飛び散るさまを目撃できるのは、そう、『電車の運転席』——そこからならまず問違いなく、一部始終を目撃できる」 「だ——だけど」ぼくは高峰を窺《うかが》いながら、りすかに言う。「目的は——なんなんだ?折角《せっかく》魔法を使っているというのに——結果として業務上過失致死の罪に問われ、職を失い、社会的責任を取らされているじゃないか。今だって、こんなところに入院して——」 「社会的責任?」  高峰が、口を開いた。 「それがどうしたというんだ、一体。俺はな——小僧。一度でいいから、電車で人を轢いてみたかったんだよ」  分不相応な暴力を手に入れた人間がやることと言えば、古今東西いつでもどこでもただ二つ。その暴力によって『上』を打ち崩すか——その暴力によって、『下』を蹴散らすか。『蹴散らす』というその予想自体は的中してはいたが——高峰幸太郎。この男の有した『暴力』は『魔法』ではなく『電車そのもの』だった、ということか。人と衝突したときのことを全く考慮されていない鉄の塊。ぶつかれば紙クズのように人を五体ばらばらにふっ飛ばしてしまう未曾有《みぞう》の暴力、暴力の象徴。その『暴力』を行使する『手段』として——あくまでもただの手段として魔法を使用した、ということなのか。頭の中ではそのように理解が進んでいくが、だが、『そんな馬鹿な』という思いをぬぐいきれない。電車で人を轢いてみたい——その気持ちが理解できないのではない。それは、スポーツカーにのって時速二百キロを出してみたいというような種類の感情の延長線上にある、理解可能な感情だ。むしろ、『魔法を使って人を殺してみたい』『魔法を使って人を線路に落としてみたい』なんて幼稚《ようち》な感情よりはずっと高度で、しかも、分かり易い。分かり易いから——分かり易い。そうか——ものが決められたレールの上を走る物体である限り、いくら本人が『電車で人を轢いてみたい』と願っても、魔法を使いでもしなければ、自分の運転する車体に、都合よく人間を飛び込ませることなど、できるわけがない。犠牲者のあの四人に、やはりリンクは欠けていたわけだ。なるほど——分かり易い。その部分を取り上げて否定するつもりはない。あの唖然とした表情が、望みを達成できたがゆえの放心だったとしても——その放心がゆえに、こんな病院に収容されることになったのだとしてもぼくはその回答を、『分かり易い』と納得しよう。だが——だが、そのために、高峰は他の全てを失ってしまっている——職も、人生も。それじゃあやっぱりほとんど——『自殺』のような、ものではないか。先に続いていない。そこまでして『蹴散らして』——どうしようというんだ。それとも、鉄道会社に辞表を出したのは、目的を果たしたからだと、そういうのか?今まで何十年も運転士を続けていたのは、『電車で人を轢きたい』という欲求、それだけのためだったとでもそういうつもりなのか?だがぼくのそんな疑問など、高峰は気付きもしないように「あんたの噂《うわさ》は聞いているよ——『赤き時の魔女』」と、りすかに、再度、向かうのだった。 「県外《ソト》で魔法を使う者を片っ端から『裁いて』いる——『魔法狩り』のりすか、だろう?」 「魔法使いは『法』では裁けない——だから『魔法』で裁くの。そういうもんでしょう?」りすかはじりっと、一歩前に寄って、言う。「それより興味あるのがわたしなのは——『それ』、誰から聞いたの?」 「さあ——………………ねえ!」  高峰は咆哮《ほうこう》のようにそう怒鳴ると、両手を天井に向けて掲げた。その刹那、病室内に異変が起こる。ぼわっ……っと、その白き壁が——床が——そして天井が——窓に至るまで、四方八方埋め尽くさんはかりに——そこに『魔法式』が、浮いたのだ。りすかが顕《あらわ》したものではないので赤くはない、むしろ無色透明の、空気のような風のような、立体的構造。ぼくは高峰を見る。高峰はいっそ狂的な笑みを浮かべていた。今まで何度も見た——狂った笑み。ぼくはこのとき、遅まきながら確信した。この男が——『犯人』、魔法の行使者である、と。魔術を悪用するものは——例外なく、この手の笑みを浮かべるものなのだ。 「魔法……『式』!」りすかが己の迂闊さを悔いるような、しまったというような声で叫ぶ。さすがに動揺した風で、大人しぶっていな言葉遣いが崩れる。「待ち構えていたのか!そのためにこの病室で、貴様!駄人間風情がわたしを嵌めようというのか!思い上がりにもほどがある!」 「確かに俺はしょぼい駄人間だが——一週間もあればこれくらいの仕事はできるさ!喰らうがいい、『赤き時の魔女』!」高峰は天井に向けていた両の手を、りすかに向けて焦点を合わせた。「まぎなぐ・まぎなく・えくらとん こむたん・こむたん——」 「はんっ!遅い、鈍間《ノロマ》が!」  呪文の詠唱を始めたのを見て、りすかがカッターナイフを取り出し、一瞬で刃をむき出しに、高峰に向かって飛びかかった。そう——それが魔法使いの、ありとあらゆる魔法使いに共通する、最大にして最高のどうしようもない弱点。呪文の詠唱中は——どうしても無防備になってしまう、ということ。神や悪魔そのものでもない限り、呪文の詠唱の義務からだけは、逃れられない。同じ魔法を使う場合、高レベルの魔法使いは低レベルの魔法使いよりも詠唱時間が多少は短くはなるものの、それでも限りなくゼロに近付いたところで、決してその数字はゼロにはならない、間隙ができる。だから魔法を本当に安全に行使しようと思えば、チームを組むか、魔法陣を使うか——りすかのように、体内にほとんど無欠の魔法式を組み込むか、しかない。この決して狭くない病室内にくまなく魔法式を描き込んだところで——それでも、まだ詠唱すべき呪文の手続きは残されているのだ。『真空召喚』、停止している線路上の空間ではなく、縦横無尽《じゅうおうむじん》に動くりすかを相手に座標を定めながらというのだから、その手間を含めて恐らく数秒ほど——そしてそれだけあれば、カッターナイフで高峰の喉元を切り裂くのには十分過ぎる—— 「……あれ?」  かくん、とりすかが、前に向かってつんのめった。勢い余って、くるりと、その場で回転してしまう形になる。 「……て、あの、ちょっと——」 「あ」  助けを求めるようなりすかの目に、さすがにぼくも気付く。ぼくとりすかは、強固な手錠によって『固定』されていた。りすかがどれだけ素早く動こうとしたところで、もう一人のぼくがこうして停止している以上、互いの腕の長さ以上に移動できるはずもなく——あっ……ていうか、こんな、こんなくだらないことで…… 「……まぎなぎむ——てーえむ!」  詠唱が、終了した。 「えっと、ごめん——」  謝るぼくの声が届いたかどうかは分からない。りすかは高峰の呪文詠唱と同時に、四方八方、天井から床から、壁から窓から、四方八方から生じた真空刃《かまいたち》によって——切り刻まれた。切り刻まれた、切り刻まれた、切り刻まれた。腕が飛ぶ、飛んだ腕が二つに分かれる、分かれた二つが砕かれる。脚が飛ぶ、飛んだ脚が二つに分かれる、分かれた二つが砕かれる。頭が飛ぶ、飛んた頭が二つに分かれる、分かれた二つが砕かれる。まるでミキサーにでもかけられたかのごとく、ぼくの目の前で、水倉りすかはすり漬されていくかのように、一瞬で、その原形を失った。原形——そう、正に原形を失う。影も形もなくなったとでも、いうほかないだろう。唯一、サイズがあってなかったゆえに最初の衝撃で脱げてしまい、難を逃れたのだろう、飛ばされた三角帽子だけが——今、床に落ちる。ぶらん、と、手錠がぼくの左腕に垂れ下がった。相手側の『固定』先がなくなったのだから、当然だ。さすがチェンバリンの労作というべきか、あれだけの真空刃の嵐にあいながらも傷一つついていない。だがそれでも、どんな丈夫な手錠でも『固定』できないということはある——もうりすかには腕もなにもないのだから。りすかはただの赤き血液となって——部屋中に、飛び散らされた。天井が、床が、壁が窓が、ベッドが、高峰幸太郎の身体が、そしてぼく、供犠創貴が——真っ赤な鮮血に、染まる。正に、辺り構わず吹き飛んだという形。全てが赤く、赤く、赤く、赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く———————————————— 「ひ、ひひゃ、ひゃははははは!」高峰は——狂ったように、笑った。狂的な、狂想の笑み。「な、なんだ——ちょろいぜ、あれが『赤き時の魔女』だって!一瞬じゃないか——まるで相手じゃない!この俺の方がずっと圧倒的だ!あの四人をぶっ飛ばしたときもばっちりサワヤカ気持ちよかったが——成程これも悪くない!一週間苦労した甲斐《かい》があったというものだ!努力して魔法を手に入れた甲斐があったというものだ!努力が報われるって、なんて素晴らしいのだろう!」 「…………………」 「は、ははははははは——こうなれば、わざわざ人生を捨てるまでもない——もっと楽しくなる!こうなれば、こうなれば今すぐにでもこんな病院退院して、この魔法を使って、俺は、俺は、俺は——」 「…………………」  やれやれいつまで待っても、『俺は』に続きがない。ま、そんなもんだろう。電車で人を轢くくらいのことが、人生最大の目的だった男の言うことだ。その目的は普通に較べて確かに高度だが、驚かされ、意表をつかれこそしたものの——ぼくを当惑させるという偉業を達成するには十分だったものの、どう考えてもやはり、人生と引き換えにすべきほどのものではない。その行為は、全く『未来』に繋がっていないからだ。全く、やれやれ、である。ぱん、とぼくは手を打った。高峰の哄笑を遮るように。実際、その音で、高峰は——多分すっかりその存在を忘れていたのだろう、ぼくの方を見た。ぼくは続けて、ぱん、ぱん、ぱん、と、手を打ち続けた。それは、まあ一応、称賛の拍手のつもりだった。 「……何の真似だ?どういう意味がある?」 「いや、あんたを称えているんだよ——高峰」ぼくはなるだけの敬意を——この程度の人間につりあうだけの敬意を込めて、そう言った。「無論今のは、先に手錠を解いておかなかったりすかの間抜けだけど、そんなことは関係ない。あんたがりすか、『赤き時の魔女』を吹っ飛ばせたという事実が、肝要なんだ」 「……………なんだ?お前は」不審そうに——高峰は、探るように、ぼくに質問する。「お前も、やはり、魔法使いなのか?」 「ぼくはただの駄人間《できそこない》さ。どんな易しい魔法だって使えない——同じ駄人間でも、あんたのような『魔法』使いとも違う。属性《パターン》は『風』、種類《カテゴリ》は『召喚』——魔法式に頼っているとはいえ、大したもんだね。実際、誰から教わったんだい?」 「——答える必要はない」 「なあ高峰。あんた、ぼくの奴隷《どれい》にならないか?」ぼくは言った。出来る限り、精一杯の誠意を込めて。「あんたの魔法、今の今までぼくは何だかんだ言いつつ軽く見ていたんだけど……それは過小評価だった。大したもんだよ。だが惜しむらくは、それでも暴力と言えるほどの質量を有していないことだな」 「…………?」 「ぼくが求めているのは核爆弾に匹敵するクラスの暴力なんだ。人を四人殺せる電車の暴力とも、少女一人をなます切りにできる風の暴力とも違う——最低でも一度に数百万と殺せるレベルでないと、戦力としては数えられないからね。ほんっとう、『魔法』ってのも、実際大したことないよね——スプーンでも曲げてろってんだよ……」肌にりすかの血を感じながら、赤い視界の中、ぼくは言う。「……でも、『塵《ちり》も積もれば山となる』。あんたのその魔法、ぼくが使ってやるよ。高峰幸太郎、あんたはぼくの駒になれ。あんたの人生に目的を与えてやろう——人を電車で轢くとか、そんなチンケな目的じゃない、人生と引き換えにするだけの価値がある、潤いのある豊かな目的というものをね」 「な、な、な……」 「どうやら高峰、あんたは目的のために手段を選ばない、自分の人生すらもなげうって構わないと思っているようでもあるし——あんたにはぼくの手下になる素養がある。あんたのその『能力』はこんなよくわからないところで消費させるべきものじゃない——勿体ないにもほどがある。あんたは力を持ってはいるが、使い方を全然分かっていない——だから、だからこそ、あんたをぼくの奴隷に選んでやる。あんたはぼくのために消費されろ。ぼくに、従え」 「ふ、ふ、ふ、ふざけるなああああああああああ!」  高峰は——怒鳴った。 「き、貴様、貴様、こともあろうか、恐るべきことに、『魔法使い』を『使おう』などというのか!」 「その通り。ぼくこそが、『魔法使い』使いだ」ぼくは一歩下がって、腕を組んで壁にもたれた。これから起こる現象を考慮すれば——これくらいの位置にいないと、危険だ。「りすかに会って、そうなると決めた。魔法使いなんて言っても、奴ら全然魔法を使いこなせていやがらない——まるで、駄人間と同じだ。両者仲良し、駄人間《できそこない》と半魔族《できそこない》。だったら仕方ない、ぼくが使ってやるしかないだろう。ぼくが使ってやらなきゃ誰が使ってやるって言うんだい?」 「こ、子供の——人間の考えることではない!」 「それがどうした、ぼくは子供で人間だ!さあ高峰。もう一度訊くぞ、これが最後だ、高峰幸太郎。ぼくに幸せにしてもらえ」 「——全身全霊お断りだ!貴様も確実に切り刻まれろ、身のほど知らずの小僧が!まぎなぐ——まぎ……」  そこで——そこで、さすがに、高峰も異変に気付いたようだった。天井から、壁から、窓から——床に、ぽたぽたと、垂れてくる、りすかの赤い血液。その量が——一人の小柄な少女のものとするのには、あまりにも多過ぎるということに。床に落ちていた血液は——その赤き血は、もう、ぼくのくるぶしのあたりまでを、ひたひたに満たしている。白いスニーカーと、白い靴下が鮮血に染まる。天井から床に落ちる血は——既に、雨のようだった。髪も濡れる。ばちゃ、ばちゃ、ばちゃ、ばちゃ、ばちゃばちゃ……ばちゃばちゃばちゃばちゃばちゃ。 「な、な、なんだ、これ……」 「非常に惜しいな。非常に恋々たる気分だ、非常に口惜しい。あんたの『魔法』、扇風機代わりにいいなあと思ったんだけど……ま、じゃあ地球環境には申し訳ないが、ぼくはクーラーで我慢することにするか」ぼくは挑発の一言を言い終えて、見せ場を譲ることにした。「じゃ、あとは好きにやっちゃっていいよ——水倉りすか」 『こ こ ろ え た!』  声が——響く。もう床を浸《ひた》す血液は、ぼくの膝《ひざ》の辺りにまできている。ぼくは半ズボンなので、脚の肌に直接、りすかの血を感じる。生ぬるく、まとわりつくように、ぬめぬめと、撫でられるような、りすかの赤く深い血の水海。部屋中に飛び散った血液が全て、まるでそれ自身が意志をもった生物のように、ずずずずっとその肌を這って、床に広がる赤き血の水海を目指して飛び込んでいく。ばちゃ、ばちゃ、ばちゃ、ばちゃ。自殺のように飛び込んで——混沌のように這い寄って——秩序のように集合し—— 「ど、どう……どういうことだ!あ、あいつは死んだはずだ!俺が殺した!」 「水倉りすかをなめんなよ。あいつはこのぼくが『駒』として、唯一持て余してる女だぜ」ぼくは腕を組んだ格好のままで言う。「どんなに強く吹き荒んだところで『風』で『水』が砕けるものか。飛ばされ散っても『水』は『水』波紋も残さず元へと還る。まして水倉りすかは水倉神檎の愛娘《まなむすめ》だぜ。神とも悪魔とも呼ばれる、あの伝説の魔法使い——『ニャルラトテップ』の称号を持つ神類最強の大魔道師が織り込んだ魔法式の具現のような存在! まるで悪質な冗談だ! 切り刻んだからどうした、死んだが何だ! ぼくのりすかは貴様如き駄人間が逆立ちしたって存在を消去できる魔女ではない!」 『そ の —— 通 り だ!』  そして展開された血の海の中から——またも、声が、響く。唸るように、渦巻くように震憾する。 『のんきり・のんきり・まぐなあど ろいきすろいきすろい・きしがぁるきしがぁず のんきり・のんきり・まぐなあど ろいきすろいきすろい・きしがぁるきしがぁず まるさこる・まるさこり・かいぎりな る・りおち・りおち・りそな・ろいと・ろいと・まいと・かなぐいる かがかき・きかがか にゃもま・にゃもなぎ どいかいく・どいかいく・まいるず・まいるす にゃもむ・にゃもめ——』 『にゃるら!』  永劫のように長き詠唱が終わると同時に——血の水海から、にゅううっと——女の腕が、飛び出てくる。ぼくの膝までの血量だ、まだ人が一人沈めるような深さではない——だが、そんなことは関係ない。そんな半端な常識で測れるようなものではない。その手は海に浮いていた帽子を探しているようだった。手探りでその三角帽子を見つけ、そして——一気に、水中から、『彼女』は姿を現す。それに伴い、床を満たしていた血液がずずずずずぅっと、潮が引いていくかのように、その嵩《かさ》を低くしていく。当然だ——『彼女』の肉体を構成しているのはこの『血』。血液こそが、その血液に刻み込まれた魔法式こそが——水倉りすか、自身なのだから。 「はっ………………………はっはーっ!」  りすかは——笑った。それは誕生の、笑い声だった。凡百の駄人間とは違う、誕生と同時に泣いたりはしない——りすかは、誕生と同時に笑うのだ。今はもう、あの、さきはどまでの十歳児の姿ではない。その十七年後——二十七歳の、姿。背は高く、線は細く、しなやかな、ネコ科の猛獣を連想させる体格に——美しき風貌。赤い髪、赤いマント。鋭角的なデザインのベルト、手袋、ボディーコンシャス。燃え上がるような赤い瞳に、濡れたような唇《くちびる》。そして、これだけは変わらない、左手に構えたカッターナイフに——赤き三角帽子。帽子のサイズが——ぴったりと、似合っている。 「……おはよう、りすか」  ぼくは呟いた。渋々と、苦々しい思いで、呟いた。これが——これこそが、りすかがぼくの『手に余る』、最大の理由だった。りすかの父親、水倉神檎はりすかの『血液』にある仕掛けを打った……一定以上の血液が流れ出た——簡単に言えば本体が死の危機に陥った際自動的《オートマチック》に発動する——本体の生命の停止を発動条件にした『魔法陣』。そう、水倉神檎は『魔法陣』を、りすかの、魔法式が織り込まれた血液内に仕掛けたのだ。条件が満たされれば自動的に発動するその魔法の内容は——『リミッターの解除』とでもいうのだろうか。水倉りすかの相対的時間を一気に十七年分進めるという、そういうとんでもない内容の魔法だ。十七年——およそ六千二百日分の時間を『省略』する。今のりすかの最大魔力、その約六百二十倍の魔力を込めた魔法陣。魔法式で魔法陣を組むという非常識。十歳のりすかにはとても不可能な魔法だが——『ニャルラトテップ』、水倉神檎なら、その程度の仕掛けは余裕で打てる。つまり水倉りすかは、たとえどれだけ血を流しても、永劫回帰、何度でも死ねるのだ。それが父親の愛情という名の庇護《ひご》なのか、欲望という名のエゴなのか、ぼくには判断ができないけれど、しかし、それでも—— 「ははははは——あーっはっはっは!おっはよーございまーっす!……ん。何か、声が、おかしいな……」  りすかは、その長くなった指を、自分の口の中に突っ込む。「なんだ……べろが全然短いじゃん。ふん——ガキモードんときに一週間分、二人分時間を飛ばすのに、魔力《けつえき》使い過ぎたか……おい、キズタカ」 「なんだい?」 「左手の親指、もらうぜ」  言うよりも早く、りすかはその位置からカッターナイフを振るった。数メートルの距離を挟んでいるというのに、そんなこととは関係なく——ぼくの右手の親指が、ごっそりと根元のところから、切断された。 「ぐ……」痛みはないが、さすがに自分の肉体が切り落とされるのは、たとえ何度目になっても慣れることなく、生理的にきついものがある。からん、と手錠が抜け落ちる。ぼくは右手で左手を押さえて止血をし、地面に落ちた親指を、りすかに向けて蹴り飛ばした。「……ほれよ」 「さんきゅー……と」その指を拾い、切り口を自分の顔の上に、捧げるようにする。ぼたぼたと流れ落ちる血液は——全て、りすかの、口の中に。絞るように、絞りとるように、りすかはぼくの血を飲む。切り口から血が落ちてこなくなると、りすかは、「あぐ」と大きく唇を開き、その指を咥《くわ》えこんでしまった。しばらく口腔《こうこう》内において咀嚼するように、その指を文字通り骨の髄までしゃぶり尽くして——最後に、「んべっ!」と、真っ赤な舌を、示した。「かーんせい!パーフェクトりすかちゃん!かっこいーぃい!美しい赤!じゃんじゃじゃ——っん!」 「………………」  唖然と——そんな様子を、高峰は見つめていた。やれやれ、本当に駄人間だ。ひょっとして本当に『赤き時の魔女』があんなものだと思っていたのだろうか?だとしたらしょぼ過ぎだよ、あんた。自分に都合のよい現実しか認めようとしない取るに足らない虫けらめ。お前如きの『火』を消すことすらできそうにない『魔法』ならば、ぼく一人でも対処できるさ。その『風』の魔法は勿体ないが——ま、使えない駒なんざ手元にあっても邪魔なだけだ。 「忠告しておくけど——その姿になってしまえば、もうりすかは、さっきまでみたいに、猫《ネコ》かぶってないぜ。一体何があったのか知らないけど、十七年後、りすかの奴、随分と好戦的な性格になってるみたいだから。何回未来を『改革』してもそうなんだよ。性格ってのは、記憶や思考とは何の関係もない肉体の問題みたいでさ——要するに、物理的な神経回路の構造と脳内麻薬の作用だから、かな。その意味じゃフィジカルもメンタルも似たようなものだね」 「的確な忠告だなあ、キズタカ」一歩踏み出すりすか。「さあその忠告を受け取ったところでどうするのかな、『風使い』——」 「まぎなぐ・まぎなく・えくらとん こむたん・こむたん——」慌てて呪文の詠唱を始める高峰。もう手枷《てかせ》はない、この詠唱中に高峰を攻撃すれば勝負は一瞬で決するが——りすかはそれをしない。のんびりと、ゆっくりと、高峰のいるベッドに向けて、歩んでいる。「まぎなむ・まぎなぎむ——てーえむ!」  そして——詠唱終了。四方八方からりすかに向かって真空刃が飛び——飛んだが、しかし——刃によってりすかの身体が切り刻まれるところまではさっきの繰り返しだったが——切り離された身体がすぐに液状化し、元の位置に戻ってしまうのが——先刻とは違う点だった。切り刻んでも切り刻んでも——切り刻んだところから、元へと還る。 「な、な、な……」 「キズタカ。説明してやればあ?」 「……十歳のりすかには『時間』を『進める』——『飛ばす』、『省略する』魔法しか使えなかったが——」ぼくは左手からの出血を抑えたままで、言われた通りに説明する。「基本的に二十七歳のりすかは十歳のときとは別物だ。肉体が、そして血液が、十七年分、成長している。己の時間を『停止』させることなんてお茶の子さいさいなんだよ」 『停止』している以上は——絶対に、何があろうとも死ぬことはない。傷つくこともなく壊れることもない。何もない。変化しない絶対的な『停止』とは、そういうことだ。時間、時間、時間、時間、時間、『時間』。 「そ、そんな」高峰の焦燥は、もう極点まで達しているようだった。「も、もう一回——まぎなぐ・まぎな——」 「だーかーらぁ!蛞蝓《なめくじ》の如く極めて著《いちじる》しく鈍《ノロ》いっつってんだろーが駄人間!一生二進法歌ってろ、歴史において何の価値も持たないゴミがっ!わたしが十六進法の三十二ビートで貴様を物体に還元してやっからよぉーお!」そこで一気にかけよって、りすかは高峰の、その貧相な老いた肉体をベッドの上に叩きつける。右手を心臓の辺りに当てて、そのまま力技で押さえつけた。いくら肉体が大人になっているとは言っても、相手は男だというのに、軽々と。そして左手ではカッターナイフを構えた。「はっはっは——っああ!部屋中にこんな落書きかまして、頭イッてんのかてめーは!こーゆーのをなあ——無駄な努力っつーんだよ、駄人間!」 「ぐ、ぐ、ぐ——」高峰は呻《うめ》く。何とか抵抗しようとしているようだが、腕も、脚も、見えない鎖にでも拘束されているかのように、自由にならないらしい。「ぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐ————」 「よっく憶えとけ駄人間!天才は百パーセントの才能だ、努力なんざしねーんだよ!貴様のような雑魚がする悪足掻《わるあが》きこそが努力だ、精々一生努力してやがれ!」『きちきちきちきちきちきち!』と、カッターの刃を一気に全部むき出すりすか。「さあ、魔女裁判の時間だぜ——わたしが貴様を裁いてやる!生きるか死ぬか、二者択一だ!」 「ぐ、ぐぐぐぐぐ……」 「てめえ如き駄人間に魔法を教えた阿呆は、どこのどいつだ?正直に教えれば、命だけは勘弁してやるぜ。ま——二度と魔法が使えない身体にはなってもらうがな」 「ど、どうして」 「ん?何が『どうして』でーすーか-?」 「どうしてあんたは——そうやって、県外《ソト》で魔法を使う魔法使いを……裁くんだ?俺達は——俺達は、同胞じゃないか」 「貴様如き駄人間が高貴なわたしを同胞と呼ぶか!無礼にも程があるぞ、ならず者が。は——しかし、そりゃ、まあ、そうだな——『父親探し』ってのも確かにあるが——」りすかはぼくの方を向いて、嘲笑的ににたりと笑って見せた。ぼくは、何も言わない。「——貴様を殺すのは貴様一人によって魔法使いのイメージが損なわれるのを防ぐためだよ。県外《ソト》の人間《テメエ》にゃあイマイチ理解しがたい話だろうが、てめえ如き駄人間が魔法使いの代表だと、魔法使いの全てだと思われるととてもとても困るのだよ。腐った蜜柑《みかん》は捨てねばならない。魔法使いが『危険』な存在だと思われると、わたし達は困るんだ。今はまだ『城門』で遮られている程度だが——いざとなれば、あいつらは、何のためらいもなく、長崎に核を落とすだろう」 「…………」 「わたし達はわたしの『同胞』は、二度と核を落とされたくねーんだよ。だからてめえらみてーな駄人間や、その駄人間に魔法を教える外道魔道師に存在されると困るんだ。魔法使いってのは魔女ってのは、無害で優しくきゅーとな愛らしい存在であるってことをアピールするためにゃ、貴様のような落ちこぼれに存在されちゃ困るんだ」 「く……そ、そんな理由で——そんな理由で——」 「さあ、わたしは寛大にも答えてやったぞ。だから貴様は卑屈に答えるがいい。貴様にそのくそったれた魔法を教えた魔道師の名前は、なんだ?」  きらり——と、カッターナイフが光を反射する。りすかはもう何直言わず、高峰をじっと、睨《にら》みつけていた。高峰は、数秒だけ、逡巡《しゅんじゅん》するように沈黙して、そして、やがて、答える——あの、狂的な、笑みと共に。 「クソ喰らえだよ、魔女《ビッチ》」 「いい解答だ、駄人間!」  カッターの刃がくるりときらめき、胸においたりすかの右手ごと——高峰の心臓を刺し貫いた。「ぐ、うう!」と高峰は呻いたが、恐怖が開始するのはこれからだ。りすかの右手と、高峰の心臓が、共に血を流して『同着』しており——そして、カッターナイフによって『固定』されている。そして——始まる。高峰幸太郎の、残りの一生が。残りの一生が、一瞬で——始まる。始まり、終わる。 「が、が、あああああああああああああ!」  ビデオでいうところの『早送り』をされているかのように——高峰の身体が、どんどんと加速度的に干からびていく。『老化』を通りこして、早くもミイラ化を始めているのだ。皮膚はかさかさになって、目玉は水分を失い濁っていき、身体の表面には動脈がくっきりと浮き出て——白髪交じりの髪が一気に総白になり、ばさばさと抜け落ちていく。一気に何十年分もの『時間』を——今、高峰は、経験しているのだ。『相性』なんて、まるで一切、考慮されずに。一方のりすかの方はと言えば二十七歳の姿のままだ。そう——二十七歳のりすかは、その己の魔法属性『時間』にのっとって『停止』の先——『不変』までも獲得しているのだ。どれだけ時間を進めようと——りすか自身には、全く、変貌が、ない。それはもう、ほとんどの概念において『不老不死』。運命干渉系の魔法というのは、突き詰めれば、ここまでのレベルに達する極限の代物なのだ。『時間』を操作すると言うよりも、これでは最早《もはや》——りすかは、『時間』そのものだ。「は、はっは、はっはっはっはっはーっ!」と、哄笑をあげながら——高峰から『時間』を——彼の『血』を、まるで吸い取っているかのように、『取り上げて』いく。 「相変らず無駄な戦い方をする奴だ——」ぼくはそんな、恐るべき時の嵐を遠巻きに眺めながら、呆《あき》れの伴ったため息を吐く。「……だがまあ、それこそが魔女、神にして悪魔の娘らしいと、言えなくもないのか」  天才は百パーセントの才能、と、りすかは言ったが、ぼくはそれは違うと思う。天才とは一パーセントの才能と——九十九パーセントの、無駄な努力だ。その意味でりすか、りすかは間違いなく天才だよ。そして、ぼくは天才でなくていい。ぼくは一パーセントのインスピレーションの他は、何もいらない。 「し——」高峰は、死の更にその先を味わされる苦痛に耐えかねてか、最早恥も外聞もなく、命乞いするかのように、叫ぶ。「死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死——」 「うるせえ!」  ぱぁん——と、りすかは、高峰の胸の上においていた右手を、叩きつけた。それによって、かろうじて保たれていた高峰の、ミイラ化して乾燥しきった肉体は——砕け散った。粉々に、砕け散った。空気中に、きらきらと、高峰幸太郎の欠片《かけら》が乱舞する。 「無様なダイヤモンド・ダストだぜ」言って、りすかは、ぱちん、と指を鳴らした。同時に、空気中に乱舞した高峰幸太郎の欠片、それに、ベッドの上に抜け落ちた彼の髪などのもろもろが、『消滅』する。『時間軸から外した』——という奴だ。「だがまあ、なかなか根性のある奴だったな。駄人間如きにしてはだが」 「……忘れてなければだけど」ぼくは勝利の余韻に浸っているりすかに言う。十歳のりすかはともかく——こちらの二十七歳バージョンのりすかは、少々苦手だった。苦手というか、『手に余る』。こんな真の意味での怪物——駒として、使えるわけがない。『強過ぎる』駒は、ときとして脚を引っ張る。その意味で、りすかは、ぼくにとって、りすかの父親と同じ問題を抱えているのだ。「りすか。ぼくの親指を返してくれると嬉しいんだけどね」 「……ああ。悪い悪い」  にたりと笑って、りすかはぼくのところに近付いてきながら——酷く無造作な動作で、自分の左手の親指を、根元の辺りからびちゃりと引き千切った。ぱしやん、と血が弾《はじ》けかけたが、すぐにその血も『停止』の作用で、元に還る。りすかは、その自分の親指を、ぼくの左手の切り口に引っ付けた。血液同士が互いに流動的に絡み合い、しばらくびくんびくんとその親指は別の生き物のように跳ねていたが——やがて、落ち着いた。動かしてみる。ぐー、ちょき、ぱー。ぐー。ちょき。ぱー。キツネ、ウサギ、イヌ。ふん。ま、女性とは言え大人のサイズのものだから、離れて見た輪郭がやや不自然ではあるが、元が不定形の液体、すぐに大きさも整って、そぐってくることだろう。 「どうも、ありがと」 「いやいや。こっちこそどうも」 「でも、どうせ殺すなら、あの駄人間から舌の部品くらい奪えばいいじゃないか」 「キズタカの血は美味《うま》いんだよ。とてもとても、相性がいい。あんな駄人間の血ィじゃあ、一人分飲んでも爪も伸びないさ。なじむなじむ、わたしにはキズタカの血が、一番よく似合う」りすかは赤い唇を歪めて、また、にたりと笑う。「それにしても、今回はお互い——完全なる無駄足って感じだったようだ。わたしはお父さんの手がかりをつかむこともできず——キズタカは、新たな駒を手に入れることができなかった」 「そうでもないよ。無駄を一つ消しただけで——無駄を消したという意味がある」 「ふふん。なるほどね。相変らずよいことをいう。しかし——この姿で会うのは、結構久し振りだな、キズタカ」 「そうだね、りすか」 「何なら、キスしてあげようか?」 「くだらねー。遠慮しとくよ。大人になるまで」 「そっか——いつもながら醒《さ》めた野郎だ。……っと。どの道、もう『時間』だな——」  とろり、と。とろりとろり——どろり、と。りすかの形が——りすかの『時間』が、崩れ始めた。ああ——一分、か。二十七歳の水倉りすかを拘束する、唯一の存在、『時間』——りすかは一分間しか、二十七歳のその姿ではいられない。高度過ぎるその魔法の、魔法式の魔法陣の、必然的な制限と言ったところか。 「じや、またいつか」 「ああ、またいつか」  りすかはぼくの返事に軽くウインクして——そして——そしてりすかは、本来的に不可逆であるはずの『時間』を逆行していく。とろとろと、どろどろと、その肉体が、装いがどんどんと液状化していき——外側から内側から、どんどんと加速度的に崩れて、崩壊していき……そして、最後に残るその形は——